ひめゆり学徒隊

ひめゆり学徒隊とは

沖縄陸軍病院に動員された「沖縄師範学校女子部」と「県立第一高等女学校」の教職員、生徒らのこと。計240名が動員された。

看護要員として看護教育が進められる

1945年2月、南風原国民学校にあった沖縄陸軍病院に通う形で看護教育が進められた。

そして動員

1945年3月23日には、動員命令が下り、第一高等女学校の校長の住宅前に集められ、沖縄陸軍病院に動員された。

空襲のため陸軍病院は国民学校から黄金森に掘られた壕へと移動し、学徒らは外科、内科、伝染病科に別れて配属された。

南風原文化センターの画像

4月中旬になると負傷兵が激増したため編成替えと分室の増設が行われた

外科 ⇨ 第一外科

内科 ⇨ 第二外科

伝染病科 ⇨ 第三外科

一日橋分室

津嘉山経理部

識名分室

糸数分室

負傷兵は増えるいっぽう、看護側は人手不足で、学徒らは昼夜を問わず看護活動に追われていた。壕内では包帯やガーゼの交換、蛆取り、手術時の補助、食事や排泄の世話のほか、食料を運ぶ飯上げや水汲み、死体埋葬や汚物処理など、壕外に出る危険な任務も負わされた。

沖縄戦を知る事典ー非体験世代が語り継ぐ

南部への撤退

1945年5月25日、軍の南部撤退により、軍病院も南部へと撤退した。その際、南風原陸軍病院では、重症患者に毒薬を混ぜたミルクが配られており、学徒がその光景を目撃している。

南部では、六つの病院壕にわかれて入ったが、患者の収容スペースも医薬品も足りない状況で治療はほぼ出来ず、伝令や水汲み以外は壕内に留まる日々が続いた。

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沖縄陸軍病院の関係者や教師と生徒は、糸満の伊原一帯に到着後、6つの壕に分かれた。医療器具や薬品、負傷兵を収容する場所もない状況で、病院はその機能を失った。

6月中旬には、米軍が南部へと迫り、陸軍病院の壕も次々と攻撃された。

解散命令

1945年6月18日、沖縄陸軍病院より解散命令が出た。学徒らは戦場に放り出されることになり、それぞれでグループを組み、壕から出ていった。島袋淑子さんの証言によると、「解散と聞いた時には、自分の耳を疑いたくなるほど驚きました。目を負傷した知念芳さんは『皆どこ行くの。ねぇお願い、行かないで』と言っていました。負傷した学友たちをそのまま放っては行けないし、かといって壕に残ることも許されないのです。私たちは結局、この友達を壕に残したまま、脱出したのです。私たちのその後の体験も地獄でしたが、敵前解散で壕に置き去りにされ、傷ついて動くことも出来ない学友たちはもっと残酷だったのです」

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136名が戦死

伊原第三外科壕では、6月18日夜、解散命令が出され壕を出ていくことになったが、出る直前に爆弾が投げこまれ、学徒隊の教職員、学徒46名が犠牲となった。解散命令後、壕を出た学徒らは、どこが安全なのかも分からないまま戦場をさまよった。ひめゆり学徒隊では動員された240名のうち、136名が戦死した。動員から解散命令までの犠牲者19名に対し、解散命令後数日で100名余が戦死している。

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沖縄県教育会館の事務所周辺の栄町市場には「ひめゆり同窓会館」がある
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