白梅学徒隊 沖縄県立第二高等女学校

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白梅学徒隊

白梅学徒隊は、沖縄県立第二高等女学校の生徒が看護要員として動員された学徒隊

白梅学徒隊の戦死者 66人

生徒(学徒隊46人中17人、その他41人)、教職員(引率0人、その他8人)

沖縄県立第二高等女学校は、1905年に那覇市女子技芸学校として久茂地に創立され、1921年に那覇市立実科高等女学校となり、1923年には松山に移転。1928年に沖縄県に移管され、沖縄県立第二高等女学校となる。1944年の十・十空襲で校舎を消失。戦後学校は再建されなかった。普通教育を主として、音楽や美術などの芸術科目に力を入れた学校でした。「白梅」は松山に移転したときに定められた校章にもデザインされた学校のシンボル。

沖縄戦で、1945年3月24日白梅学徒隊として編成され、最上級生の4年生46人が動員された。東風平村(現八重瀬町)富盛の第24師団第1野戦病院に配属された。

十・十空襲の後、学校は休校状態であったが、1945年2月、学校より4年生に、看護教育のため3月6日国場駅に集合という指示が出た。当日国場駅に集まった56名は東風平国民学校へと向かい、そこで軍隊式の厳しい生活を送りながら看護教育を受けた。3月23日の上陸前空襲により看護教育は打ち切られた。体調不良などの理由で10名が除隊措置を受けたため、46名が第二十四師団第一野戦病院へ配属された。

沖縄戦を知る事典ー非体験世代が語りつぐ

第24師団第一野戦病院壕跡

沖縄県八重瀬町富盛

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